おじいちゃんの話

 

僕には、おじいちゃんが2人いる。

父方の、実家で一緒に暮らしていたおじいちゃんと、母方の、車で10分も行けば会えるおじいちゃん。

 

母方のおじいちゃんはなんだかんだありながら、畑仕事にビニールハウスにと精を出しているので、もう暫くは元気だろう。

 

今日は、父方のおじいちゃんについて思い出を綴ろうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

記憶のある頃から遡っても、僕は典型的な「おじいちゃんっ子」だった。腐るほど田舎ということもあり、3世代同居は当たり前、共働きの両親に代わって、おじいちゃんの後ろをずっとついて回っていた。

 

大工の棟梁をしていたおじいちゃんは、とにかくなんでも出来る人だった。鋸にトンカチに何百種類の釘、糸と墨を使って線を引いたり、L字型の物差しで何やら測ったり、今でも何を作っていたのかはよく覚えていないが、手際よく作業をするおじいちゃんを見るのが好きだった。

チャリのタイヤのパンクも直すし、ヘビが出たら叩いて殺すし、ショベルカーを乗り回して小屋の解体までしていた。

もちろん米農家でもあったので、トラクターから田植機、コンバインなど色んな機械を乗り回していた。

 

 

お酒も弱いくせによく飲む人で、いいちこのお湯割りを好んでいたように思う。フライパンで鶏肉を焼いて、大相撲を見ながら焼酎を美味しそうにすするおじいちゃんは、とてもかっこよかった。煙草はキャスターの5ミリ。僕が煙草を吸い始めたのが20歳になってからだが、その頃にはもう欠番していた。

 

綺麗な白髪をオールバックにしているのに、全部抜けてしまった歯、おぼつかない口元のアンバランスさが僕は好きだった。

 

小学生の頃は公文に通っていたから、送り迎えも沢山してもらったし、野球の応援にもおばあちゃんを連れてしょっちゅう来てくれた。

 

僕が大学生になるまでの18年間、腕が上がらなくなったり少しずつ痩せてはいたものの、元気なおじいちゃんと一緒に過ごした。

 

 

 

 

 

 

 

そんなおじいちゃんも、老いには勝てなかったようだ。僕が大学生になって一人暮らしを始めた頃から、徐々に徐々に弱っていった。車の運転をしなくなり、お酒を飲む回数も減り、しまいには家の周りを散歩するのがやっと、というところにまで衰えていた。「僕がおらんから寂しいやろ」と冗談で言ったつもりが、えらく真剣な顔をしていたことを覚えている。

 

 

 

僕が20歳になる手前、ほんの一週間前の出来事だ。

都合をつけて実家に帰り、食卓でおじいちゃんと話していると、おもむろにいいちこを取り出した。

 

「もう、ほんまに飲めへんようになったわ」

 

「まだまだ飲まなあかんで」

 

「おう、お湯入れてきてくれ」

 

僕はグラスを2つ持っていた。1つはおじいちゃんの、もう1つは自分用だ。なんとなく、なんとなくではあるが、感じ取っていたのかもしれない。

 

とくとくとく、と小気味よい音を立ててハーフのお湯割りを作ったおじいちゃんは、ちびちびと飲みだした。

 

「内緒でな」

 

僕も一緒に飲むことにした。なんとなく、これが最後のような気がした。そんなことを考えていると、何だかいたたまれなくなって、「彼女から電話だわ笑」と嘘をついて自分の部屋へ駆け込んでおいおい泣いた。

 

 

 

 

 

 

本当に、その時はやってきた。

居間の段差で転んでしまったおじいちゃんは、骨折と共に肺炎を患った。しかも誤嚥性肺炎という、痰が気管支に入ろうとする病気だった。

いつまでも元気だと思っていたおじいちゃんが、酸素マスクを付けてベッドに横たわっている姿を見ると、涙が次から次へとこぼれた。喋ることもままならず、ましてや食事も摂ることが出来ない。意思表示もしんどそうな顔を見せるだけで、何をしてあげたらいいのか、皆目検討もつかなかった。

 

僕はそんな自分が情けなくなって、気丈に振る舞う家族を尻目に、喫煙所でおいおいと泣いた。

 

帰りの車で、D.W.ニコルズの「ありがとう」を聴いて、視界が見えなくなってしまった。

 

「優しいものだけ 全部集めたら あなたが出来上がる

何も求めずにいつでも笑顔でボクを見守ってくれる

たったひとつ ひとつだけでも 何か返せたかなあ

 

ありがとう ありがとう

叫んでも届かなくなってしまう前に

ありがとう ありがとう

叫ぶように歌うよ今あなたに ありがとう」

 

 

これが最期だと思った。

 

 

 

 

 

 

ひと月ほど経つと、なんとか安定したようで、僕の成人式のスーツ姿を見せることが出来た。相変わらず喋りはおぼつかなかったが、僕のことをちゃんと分かっていて、笑顔で写真を撮ってくれた。

 

 

 

 

 

季節は夏になった。

期末テストを控えた僕は、必死に勉強していた。親父から入電があり、危篤とのこと。勉強道具を片手に、片道4時間の田舎道をぶっ飛ばして帰る。

病院に駆けつけると、意識があるような無いようなおじいちゃんが横たわっている。おう、と声をかけると、薄ら目を開けて反応してくれた。

もう、おじいちゃんと過ごすのは最後だろうな、と覚悟を決めて、一緒に過ごすことにした。入れ代わり立ち代わり、家族や親戚が来たが、僕はずっと病室に居た。

痰が絡んで上手く喋れないおじいちゃんは、どんな声をかけても反応はするが会話が出来ないでいた。コミュニケーションがとれないのは大変に苦痛だったが、おじいちゃんと過ごした日々の思い出にふけり、忘れた頃にテストの勉強をし、3日間を共にした。

 

 

 

 

 

 

 

これが、おじいちゃんと過した最後の時間だった。それから3日ほどして、夜中の2時頃に、息を引き取った。84年の生涯だった。

 

覚悟を決めていたのだろう、葬儀屋さんが淡々と作業をするのには、なんの抵抗もなかった。むしろ、人が亡くなったらこういうことが行われるんだと、関心さえしていた。

お通夜の夜も、葬儀会館の遺族控え室みたいなところで、叔父さんたちとおじいちゃんの思い出話に耽った。

 

 

 

葬儀の間もなるべく平静を保っていたものの、いざ出棺前、お別れの場面となると、声を上げて泣いた。嫌だとか離れたくないとか、そういうのではなく、もっと一緒に過ごせばよかった、もっと沢山話をすればよかった、ドライブに連れて行ってあげられたのに、お酒を一緒に飲めたのに、煙草を吸ってあーでもないこーでもないと言いあえたのに、色んな後悔が襲ってきた。

一人暮らしを始めなければ、一緒に暮らしていれば、元気にしてあげられたのかもしれない、とも思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おじいちゃんが亡くなって4年目の夏が訪れた。

悲しいことに、記憶は薄れていってしまう。多忙な日々に追いやられて、頭の片隅からどんどんとこぼれてしまう。

 

それでも、おじいちゃんと過ごした毎日があって、いまの自分があるのだと、確かに言うことが出来る。叫んでも届かなくなってしまう前に、ありがとうを、言おうと思う。